1543年日本人の出会い
島の住民は彼らを歓待した。この時、若き当主、種子島時堯は彼らの持つ一本の長い鉄筒に目を留めた。その筒を手に取り、ややしばらく狙いを定めて何やら仕掛けると、轟音を発して、その先数十㍍ににいた鳥も容易に撃ち落とせた。日本人と鉄砲との出会いである。
時堯は直ちに2000両を与えてこれを買い取り、日夜練習を重ねてたちまち百発百中の腕前となった。とともに島の鍛冶屋矢板金兵衛にこれを模して造るように命じた。金兵衛は豊富な砂鉄を原料に発展してき鍛冶技術を駆使して、たちまちのうちに筒をモノにしたが、筒の後端、銃尾を塞ぐ方法が分からなかた。。どのようにしても火薬の力で吹き飛んでしまい、如何ともし難かった。
ポルトガル人は1年後に再びやってくる。その時、金兵衛は娘を出してその秘法を探った。そしてはじめてそこにネジという技術が使われていることを知る。これまた日本人がネジと出会った最初である。
こうして鉄砲という道具の使い方と、それを作る技術、そしてそれに必要な火薬の製作、という総合的な工業システムまでを受け入れ消化し、たちまちのうちに200丁にも到る鉄砲を製作した。しかも教えを請うものにはその技術を快く伝授したから、2年後には関西に伝わり、こうしてまたたく間に関東にまで伝わって全国に鉄砲が普及してゆく。
時はあたかも群雄割拠の戦国時代。新式武器としてそれを受け入れる機運があったとはいえ、ヨーロッパ人も驚く技術吸収の早さ。アジアの他国とは異なる手工業とはいえ工業レベルの高さを物語る話しではある。
日本人は鉄砲と聞いただけで眉をひそめる人が多いが、鉄砲の伝来はそこに現代に繋がる工業技術発展の目が誕生したとう点にもっと意をそそがねばならない。教科書で「1543年鉄砲伝来」と教わる意義はそこにある。
by natsuman | 2008-08-26 14:52 | 祭礼行事 | Trackback | Comments(0)