何だこれは。植物ってのは、普通は外に生えている。大概は窓から眺めるものと相場は決まっているはず。だがこれは家の中に見事に生え育っている。しかもどうやら下の階からではなく、2階の床に根を延ばしている。
この木、何年経つだろうか。10年じゃきかないだろう。しかもここ木造じゃあない、鉄筋コンクリート造りだ。
ここへ種がとんできて根を下ろし、風雪に堪えてここまで繁茂するのは並大抵のことではない。
実はこれ、八幡平は旧松尾鉱山跡の廃屋。鉱夫向けの宿舎だったのだろうか。丘の上になお相当の数の廃屋が建ち並んでいる。確かここは硫黄鉱山だ。その従業員団地だろう。
これらの施設、今でこそ夏草に覆われて緑の中に埋もれているが、明らかに人工的な造成地を前にしている。しかも広大だ。貯水ダムもある。
建物は明らかに戦後の建造。それがあるとき突然、天然資源の硫黄を採鉱する必要が無くなったのだろう。今や強者共が夢の跡だ。
日本は火山国の強みで、硫黄は豊富に算出した。それが戦後、原油を運び製油する段階で硫黄が分留できるようになった。硫黄鉱山の閉幕である。
看板に注意書きがあり、みだりに侵入するなと。網の目のように張り巡らされた地下坑道が原因で、この広大な台地が陥没するという。
近くにはなぜか学習院の施設(跡だけ)があった。また温泉場もある。だが今は見る影もなく寂れている。
硫黄は火薬の原料になる。朝鮮戦争と何か関係があったかも知れない。
松尾鉱山(ウイキペディアから)
19世紀末から1969年まで岩手県岩手郡松尾村(現在の八幡平市)に存在した鉱山。主な鉱物は硫黄。黄鉄鉱も産し、一時は東洋一の硫黄鉱山だった。
ここに硫黄を産することは古くから知られていたが、本格的な採掘は明治44年から。標高約900メートルの元山から麓のまで索道を通し、昭和9年に東八幡平駅から花輪線大更駅まで松尾鉱業鉄道を敷き輸送に当たった。
一時は日本の硫黄生産の30%、黄鉄鉱の15%を占め、東洋一の産出量を誇る。1960年代後半、石油精製で脱硫装置の設置が義務付けられ、その副生成物として得られる硫黄生産が活発化。硫黄鉱石の需要は完全になくなる。昭和47年鉱業権を放棄して完全閉山となった。
標高900メートルの無人の山間に開かれ、鉱山は必然的に鉱山町の形成を伴った。人口は、最盛期の昭和35年、1万3594人に達した。
戦後は労働者の確保を図るために福利厚生施設の充実が急務となり、公団住宅が一般化する前から、水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や小・中学校、病院、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成された。別名「雲上の楽園」とも呼ばれた。現在はそれらの建物が山中に廃墟として残った。