カテゴリ:歴史諸々( 72 )

 

元号を推し量る

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平成31年5月1日を元号が新しくなる。
さて一体何になるか。
今朝方、寝床の中でそれを考えていて、つい寝過ごした。
顔も洗わず飛び出して体操には間に合ったが・・・・。

前回平成となった時、いやそうなる前のことだが・・・。
職場で論壇風発、新しい元号についていろいろと案が出た。
他人のは忘れたが、自分のはしっかり覚えている。
なぜなら正に「平成」だったからである。
今の世相を反映して、こうしたい、なりたいとの意を含めるだろう。
ならば、平和にしたい、平和な国になりたいではないか。
そういう意味で「平らかに成る」なんてのが一番可能性ありだと。
どんぴしゃりでしたな。

その思いのついでに、調子に乗ってまた今度もと考えたら、眠れるはずがない。
既に候補は四つか五つは挙がってるだろう。
いずれその中のどれかに決まるわけだ。

30数年前を思い出し、あれこれ考えた。
近代は明治・大正・昭和・平成と続いた。その間、略号はM・T・S・Hと使った。
それ故にマ行・タ行・サ行・ハ行はないだろう。
略号で区別出来るようにするにはそれはない。
カ行も明治の前年に慶応があるからどうだか。
今やKを使う場面などあるはずもないが。

そうなるとア行・ナ行・ヤ行・ワ行しかない。
ヤ行やワ行は現代ではそれぞれ3音しかない。これもないだろう。
するとア行とナ行しかない。

日本は戦後70数年を経て確かに平和に成った。
次は更なる安定が求められるだろう。要は安らかにだ。
きっとこの「安」が使われるに違いない。

問題はそれに続く語だ。
広辞苑で二字で安のつく語を片っ端から探す。
安吾・安康・安国・安定・安寧・安泰・安穏などが浮かび上がる。
その中で使えそうなのはやはり「安寧」だ。
「あんねい」と読む。
史記に「天下に異意無きは則ち安寧の術也」とある。
則ち「世の中が穏やかで平和なこと」、つまり「安泰」だ。
宜しいではありませんか。

しかし、朝鮮語でこれを読むと「アンニョン」となる。
そうなんである。「アンニョン:ハムシカ」。
誰しもが聞いたことがあるだろう。
「元気か」の意だが、これは引っかかる。
半島人のことだから、これを元にまた何を言い出すか分からない。
うーん!
陰の声:いやいや、漢字を捨てた国じゃないか。ハングルしか読めない!

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by natsuman | 2017-12-24 09:10 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

12月8日

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今日は、70数年前、日本がアメリカの真珠湾を攻撃した日。
と云っても今の若者は分からないか。
アメリカとの戦争が始まった日だ。
だが今日顔を合わせた人は誰もそれを口にしない。
もう忘れられた歴史の彼方の出来事なのだろうか。

この日、母艦から発進した航空機が軍事基地を奇襲した。
基地米軍は開戦を知らされてない。
艦船は大打撃を被った。が戦闘機や対空射撃で果敢な抵抗もあった。
日本側にもそれなりの犠牲があった。
が奇襲成功の報に躍って自軍の犠牲に目が届かない。
関係者は成功と語る。だが犠牲があったことは隠された。
それを語る話は殆ど聞かない。
奇襲成功なら大戦果は当然。
それに目がくらんで軍人が日本人が思い上がった。

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by natsuman | 2017-12-08 22:06 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

国民の憧れか、慰安婦

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サンフランシスコの慰安婦像。
公認した市長も市長だが、
公認を働きかけてきた半島系人の頭の構造を疑いますな。
どうみても彼らのシンボルに見えるじゃありませんか。
像というものはそういうものです。
それが慰安婦ですよ!
自分たちのやっていることのおかしさに気がつかないんでしょうか。
それとも慰安婦が半島人の国民的憧れなんでしょうか。
かって李承晩というお人が国の陣頭指揮を執っていたことがありました。
その男が推奨したのは、「国民みな売春婦として稼げ!」でした。

大阪市長さん、お認めになったら如何でしょう。
慰安婦になることが韓国系国民の憧れなんですね、と笑いながら。




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by natsuman | 2017-11-24 09:56 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

退位の年数に西暦か

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俄に天皇陛下御退位の日時が取りざたされている。
19年の4月末に御退位かというものだ。
それを見てエッと絶句した。
19年とある。が平成19年ではあるわけがない。
それでは10年も前のことになる。
当然これは西暦2019年という意味だ。それは分かる。
だが退位と元号は切っても切れない関係にある。
肝心の元号年はどうしたのだ。
日本は長らく元号制を敷いてきた。その日本の新聞である。
ここは当然「平成31年」の、とするべきではなかったか。
もし分かりやすくするためならば、括弧書きで西暦年数を入れれば良い。
書いた記者とこれで良しとした編集子のご意見を聞きたいものである。
それともこちらの認識がずれているのだろうか。


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by natsuman | 2017-11-23 13:51 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

江戸時代、焼酎が一般的に呑まれていたか

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昨日は雨。今日は一日晴れ。
寒いような暖かいような妙な気温。
今ひとつ空気がカラッとしない。
朝日の反対方向、綿帽子を被った富士の姿も朧気だ。

先日の古文書研究会でのこと。
市内布良地区の文書を解読している。
比較的裕福な漁民のグループが富士信仰の旅に出た話。
布良から船で江ノ島へ上陸。
藤沢から現町田を通って高尾山へ。
甲州街道経由で吉田へ。
参詣を無事に果たして戻ってくる。
ただそれだけの話しだが、このグループ、
途中良く酒を飲むこと呑むこと。
お茶代わりの感がある。
そこに時折「正中呑む」と出てくる。
これを「真昼間から呑む」と解釈したところ、
これは「焼酎を呑む」の意だと云う。
正中は焼酎の当て字だというのだ。
ホントにそうだろうか。
第一、江戸時代、焼酎が一般的に呑まれていたか。
もう幕末に近い頃とはいえ、
専ら下りの清酒が喜ばれていた関東で焼酎が?
それも茶店や旅籠で呑めたか?
九州ならいざ知らずだが。
で調べた。だが期待に応える資料はwebにも見つからない。
旅の道中で本当に焼酎を呑んだか、いや呑めたか。不思議である。
これは案外、歴史の盲点かも知れない。
ボク一人、なお疑問が解けない。
お陰で気持ちもスッキリしない。


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by natsuman | 2017-11-09 09:47 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

古文書とお金

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古文書の世界へ踏み込んで何年経つか。
老人の趣味としてはこれ以上のものはない。そう思ってる。
古文書は大体が江戸期のもの。色々あるが目にしてきたものは皆地元のもの。
名主や庄屋が役目がら作成した村方文書や、借金証文、土地の境界争い、水争い。
訴訟関係の文書に現代ならば本籍の移動など、当時の庶民の暮らし分かって面白い。
また旅に出てメモとして残した旅日記を道中記と云うが、これもまた面白い。
道中記と云えば弥次喜多道中記が有名。それ以上に面白いものがある。
房州和田の商人・鍋屋嘉平が残した道中記は逸品だ。

道中記は面白い。そこには大概金銭の出入りが克明に記されている。
それで当時の物価が分かるし、庶民の暮らしぶりも分かってくる。
ただ銭勘定は現代と違ってかなりややこしい。
銭の文の単位ならばまだしも、金だ銀は換算しないと現代人に分かりにくい。
しかも時代により一両が何文なのか変動がある。
江戸時代の貨幣制度は、金、銀、銭と3本建てであった。
銭は十進法だが、金は四進法で金1両は金4分。
さらに金1分は4朱だから1両は16朱となる。金はこの分と朱を使い分ける。
銀は基本的に目方。一々秤に掛けなければならない。
今読み解いている道中記でも金銭の出入りが委しく書かれている。
それも貸したり借りたり立て替えたり。最後は頭割りにしたり。
それをきちんと理解できていないと書かれている内容も分かりにくい。
特に金額が嵩む場合は、金で何分何朱ト 銭で何貫文、などとなる。
十進法でかたが付く現代と違って一々銭に換算しないと全体額が分からない。
それだけで十分に本になる。「江戸の銭勘定」なる本もでている。
以上、時代を知るにはお金のことを知らないといけないというお話でした。

なお、古文書を「こぶんしょ」と読む方がいるがこれはまちがい。
あくまでも「こもんじょ」である。
辞書に「ぶんしょ」はあっても「こぶんしょ」という言葉はない。
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by natsuman | 2017-11-02 10:16 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

国宝”投入堂”

三朝温泉の近く、車で10分ほどの所に、国宝で有名な投入堂がある。
三徳山三佛寺の最奥の建物である。
本堂脇からここへたどり着くのは至難。
木の根を掴み、岩を伝い、鎖に頼りながら一時間半はかかるらしい。
何せここは修験道のお山。修行の場である。
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そこに断崖にへばりつくように投入堂がある。
こんな所に一体どうやって資材を運び造ったのか首を傾げる。
役行者が法力を持って岩窟に投げ入れたと伝わる。
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これを見るには、そこまで行くか、でなければ遙か下の車道から望見するしかない。
しかもたった一ヶ所でしか見えない。
以前来たことがあるから懸命に探したが、中々その場所が分からない。
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今は望見所があって小さな双眼鏡が置いてある。
しかしそれでも遠すぎて良く分からない。
一番上の画像では杉木立の谷間。ズームアップしても二枚目が精一杯。
結局、細部はポスターで確認するしかない。
なお資料館には、無造作に置いてある虫食いだらけの古材に国宝の札があった。
1300年前の棟木という。
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本堂には御幣の陰に隠れてこれまた無造作に”蔵王権現"像が置かれてる。
修復の間だけのご開帳。終われば二度と拝観出来ない御像との由。
ここは歴史の単位が違う。

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by natsuman | 2017-09-12 08:30 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

安房国藩主、ここに没す

何の変哲もない山間の水田。
房州ではあらかた収穫が終わったのにここはまだ。
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昔日、ラジウム温泉として賑わった関金温泉には美作街道が通っている。
交通の要衝。関所があった。
その地からすこし北側に小鴨川の流れがある。
周囲は大山の裾野に続く丘陵地帯。
豊かな伏流水を利用して山間には水田が広がる。
そんな一角、河川敷から段丘を少しあがったところ。
多分この一帯が忠義の屋敷跡だったろう。
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遡ること395年前。
忠義は故郷を再び見ることなくここに終焉する。
今そこには屋敷林であった椎の巨木と小さな祠があるのみ。
目の前には稲穂がたわわに実っている。
彼ら士従が十分に口に出来たか痛ましい。

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by natsuman | 2017-09-09 09:08 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

長崎、もう一つの実験

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72年前の8月9日、アメリカは開発した原子爆弾二つの内、もう一つを実験した。
広島に続く生体実験だった。

当時、戦争は外交の正当な手段。行き詰まった外交を戦争に訴えるのは違法ではない。
戦争では敵である相手の戦力を打ち砕くのが目的だ。それには兵士を殺す行為が含まれる。沢山殺せば英雄。罪には問われない。
但し、相手は兵士に限る。誰でもというものではない。
そこを区別するため兵士は軍服を着る。軍服でないものの殺傷は違法である。

敵国人とはいえ、兵士以外の市民を殺せば国際法に違反する。人道的信義にもとると云うのがその理由。それを大々的にやったのがアメリカ。都市を爆撃し数万人単位の市民を焼き殺した。戦闘機でさえ市民を見れば銃撃した。明らかな違法行為である。

古き時代、戦争は常に相手が見える場所、則ち戦場で行われた。市民はそれを眺める立場だった。
時に巻き添えを食って犠牲者が出ることもあったが、兵士が一般市民を相手にすることはなかった。
ところが兵器が発達して、見えない相手を攻撃するようになってから犠牲者が増えた。
特に飛行機が主役になってから顕著になる。ましてや都市爆撃が始まって一般市民の犠牲は格段に増えた。
飛行機からは地上の惨禍は見えない。搭乗員は地上で何が起きているか知らない。後方の司令部ではなおのこと。爆撃という手段が人間を狂わせた。

敵国民が戦争を陰で支えているという理由でアメリカは市民抹殺を正当化しはじめる。ついには人間をいかに効率よく殺すか、その方法を研究した。
焼夷弾による都市の爆撃。東京大空襲に代表される日本全土の爆撃。その延長上に原子爆弾投下がある。
しかも威力を確かめるため、実験として広島に続き長崎にも原爆を投下した。反撃するだけの戦力も国力ももうなかったのに。

今、核兵器は現実の力になっている。ましてや核の傘に守られている日本。それでいて核兵器廃絶を謳うことの矛盾。
そんな中で原爆被害を止めどなく悲歎しあっても今さらどうにもならない。追悼しているだけでいいのか。辛い体験をした大勢の人々に代わって非難の声を上げるべきではないのか。 
被害者は一般市民だったという、このアメリカの非人道的行為に何故日本人は声を上げないのだろう。黙祷! 合掌


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by natsuman | 2017-08-09 17:15 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)  

東金の記憶

東金は古くは家康の鷹狩りの場であった。御殿があり東金御殿という。
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東金に行くために家康が作らせた道路が御成街道。今も一部が残っている。
そこを通ると、昔の北総台地がどんな風情であったかが分かる。
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町中からやや山に入ったところに桜の名所・八鶴湖がある。
その湖畔にかって旅館”八鶴館”があった。
今は”八鶴亭”として食事処になっている。
懐かしくて車を止めたら、由緒来歴の看板が出ていた。
国の登録有形文化財(建築物)だそうだ。
名館とは聞いていたがそんな文化財建築だったのかと驚いた。
北原白秋や佐藤左千夫、それに皇太子時代の今の天皇陛下もお泊まりになったとか。
そういう場所だったんですね。

東金は道筋に古い構えの大店が軒を連ねていた。皆商家だった。
後に街並みは駅の向こう側に移る。街並みの大移動だ。
母はその東金の出。今も生家が残っているが、
実家はその波に乗り損ねて今は見る影もない。

戦時中、そんな街筋に面した家の二階に暮らした。
父を除いた一家の疎開だった。
九十九里浜に米軍が上陸する、艦砲射撃があると聞かされては、
その度に防空頭巾を被って防空壕に身を潜めた。
東京大空襲の頃である。
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by natsuman | 2017-07-05 10:00 | 歴史諸々 | Trackback | Comments(0)