ご先祖は 5月23日
今になってはもうよく分からないのだが、我が先祖は上総の山奥、養老渓谷の支流古敷谷川の川沿いにある。その墓地は昔は城郭ではなかったかと思わせるような尾根の山上にある寺の、しかもその最奥にある。後の新しい墓は全てその下に展開している。
しかも古くは寺の門前に屋敷(地形的にそういえるほどのものがあったかどうかは不明だが今も井戸がある)があり、村の名主であったと父から聞いていた。が如何せん100年以上も前のこと、ましてや父はその山奥の村の出身を恥じてあまり語らなかったからボクも多くを知らない。僅か3代前のことがもうよく分からないのだ。
さらに明治33年頃の大竜巻で全村が壊滅的損害を受け、血筋としては僅か13才の娘(ボクの祖母)だけが生き残った。住まいは移さざるを得なくなり、その廃材で山の下に移築。父もそこで育った。だが父は長男でありながら、将来を憂えて都会へ出る。苦学して新聞記者になり、伝来の地は叔父が後を次いだ。だがその子供(いとこ)も子がなく、今まさに先祖の地は風前の灯火でる。百年以上前に掘った掘り抜き井戸が今もコンコンと清冷な水を飽かず流しているばかりだ。
実はボクも長男である。本来なればボクはその正統な跡目を継ぐ立場にある。戦争中はここに預けられ祖母に育てられた。だからここはボクの故郷でもある。その立場を考えてはいつも心中に今複雑な思いを抱えている。
思えば寺のある位置と周辺の地形が不思議だ。一方は崖、一方は深い川、かろうじてまるで塹壕のような細道が唯一その寺の山門に繋がっていて、他に道らしきものはなかった。外敵を防ぐために不便を忍んでわざわざこんな地形の山上に寺を造ったとしか考えられず、さすがにその寺と周辺の住人の便を考えてか、今はかっての崖を切り崩して車のはいる道が出来ている。
この寺の開基が何のか。かねてから知りたかった。だがどうやら寺そのものはそんなに古くないらしい。寺らしくなったのは明治以降だろうか。ではその前はそこは何だったのか。未だ疑問が残る。もしかしたら中世の城跡ではないか、誰かの亡骸を葬って後、臣下であったご先祖が屋敷を構えてそこを守り、以後、営々として百姓に甘んじて隠遁の生活をしていたのではないかなどと。そんな歴史があれば面白い。
この地に百姓文書が残っていると県の史書にある。「古敷谷村百姓文書」、そこに太郎左衛門慰という名が記されている。これがボクの血筋に繋がるという確たる証拠はない。
なお不思議なことは、同姓の家もいくつかあるものの我が家だけは何故か上がり藤なのだ。これも何かを物語っているかも知れない。
by natsuman | 2008-05-23 19:28 | 教育学習 | Trackback | Comments(5)
古敷谷村は私の先祖の地です。また私自身、館山の古文書研究会の一員です。ルーツを知りたいので古敷谷関係の古文書があればぜひ拝読したいものです。
「コンテンツ」の中にあります。古敷谷村で名主を勤めた鎌滝喜六家の古文書です。
先祖の地は没落して今や風前の灯火状態です。それだけに余計ルーツを知りたいものです。
お尋ねの件は、「千葉県の歴史」資料編 中世3(県内文書2)にあります。恵日寺文書 二号 里見義頼 印判状 「平蔵の郷古敷屋の村」です。