贅沢 3/18
それに比べて今の若い者は(年寄りだなあ、この言い方)あまり余るモノに囲まれて不自由さを知らない。これは不幸だ。不自由の経験がないと何が幸福感をもたらすのか分からないからだ。
贅沢は嫌いだという人はまず居ない。誰しもそうありたい。楽しく愉快だからね。だが人間ほどほど身の丈に合わせていないと贅沢には際限がなくなる。
地球人口の僅か1%の人が地球上の富の40%を手中に収めているという。驚くばかりだ。お金に不自由がないということは何でも手に入るということ。だがそうなると贅沢が普通のことになってその幸福感が分からなくなってくる。
行った先、建物、ロビー、ホール、廊下、空間や間取りの贅沢さ、デザインは申し分なくボクらも知る巨匠の巨大な名画がこれでもかと並び、随所にある生け花の数々、何もかも豪華なしつらえ。そしておおぜいの心地よいサービス、従業員の笑顔。まことに結構、この上ないものであった。
宿泊には支払う対価の都合上、上下がある。ただ廊下を行き交うだけでは気がつかないが、夜になってさて期待の夕食となると俄然その待遇に差が出た。一夜は部屋出し翌日はお食事処でとそれなりに贅沢感あふれるもてなしで、お料理もなるほど宿が謳うだけのことはあると感心できた。味付けに手抜きがない。椀ものがそれを物語っている。滅多にない贅沢ぶりと満足した。
帰り際、玄関前に切り取られた桜の株、結構な太さであった。30年くらい経っているのではと思わせる。その先端部だけを飾り付ける。そんな樹を切り出してのエゴ。まったく贅沢に切りはない・・・・・。
因みにボクが好む温泉は山の温泉である。一軒家。湯に浸かるしかすることがないような、そんな宿がいい。豪華さよりも静けさが良い・・・・・。
by natsuman | 2015-03-18 11:19 | 温泉・旅 | Trackback | Comments(0)