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八賢臣か八犬士か 8/29

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 我が家の近くに古い墓がある。当地へ住むようになった頃はまだなかった。どこか近くに埋まっていたらしい。一番左の武士の座像はこの直ぐ裏の谷間に転がっていた。何でこんなものがここにあるのかと随分不思議に思ったものだ。
 それがいつのまにか発掘され整備されて現在に至る。かっては五輪塔だったかも知れない石塔が全部で八つ。これを地元の歴史家は「根古屋の古墓」と称している。しかし子細はよく分からないようだ。
 根古屋というのは根小屋とも書き、古く城のあるところには必ずある地名である。実際、地図を広げていると全国同じ地名に良くぶつかり、かって城があったことを物語っている。
 しかも大抵は身分の低い、まあ比較的若い武士達の住まいがあったところである。対して上級の武士、例えば家老級になるといわゆるお屋敷地区に住む。実際当地にも御屋敷という地名が残っている。
 当地は十代続いた戦国大名里見氏の終わりに近い頃、江戸時代の初期だが、里見氏九代目の義康が当地の地理的な商業性に目をつけて城をここに移し館を設け、城下町を盛り立てた商業地である。館のある山を中心に栄えてきた故に館山の地名が起きた。
 しかし、まだ徳川幕府の政権が安定する前、大坂夏の陣の頃だが、江戸に城を構えた家康にとって、その近くに外様大名の里見氏が存在するのは面白くなかった。というより脅威だったのだろう。10代の忠義の代に大久保忠隣の失脚に事を寄せて、藩主忠義を今の鳥取県倉吉(当時は伯耆国)に突然移封してしまう。もちろん城は破却される。館山藩の終焉である。
 藩主忠義は倉吉で淋しく27歳で亡くなり、その時、八人の遺臣が追い腹を切って殉死する。それを哀れんで、誰かは分からないが漁師に変装し、お骨を蛸壺に収めて隠し運んだという話が伝わっている。それを基に御屋敷の裏、今「姥神」と呼ぶ場所に八基の五輪塔が並んでいる。
 なぜかその戒名には八人とも「心」と「賢」の2文字がある。一体これは何を意味するのか。と説明板にもある。
 さて初めに挙げた「根古屋の古墓」、これも八個並んでいる。これがもともとの八賢臣の墓石だとの証拠はない。が八個という数が何かを語りかけているようにも思える。
 なお江戸時代後期、この里見氏の歴史を題材にして壮大な「南総八犬伝」が産まれた。全128巻。世界的にも有名な長編小説である。
 今城山の天辺には天守がそびえるが、元来が中世の城であるから天守のような建物があったとの証明は難しい。今は博物館の分館である。世界でただ一つの「八犬伝博物館」と称して。
 なおまた千葉県というところは全県的に硬い石材が出ない。鋸やノミでで容易に刻めるような柔らかい石しか採れない。ということは古い石碑はいつかみな溶けて崩れてしまう。元の形さえよく分からない。歴史を証明するはずの刻まれた文字を読み取ることが出来ない。当地の安房石、房州石、みな然り。房州の古い歴史を探る段に当たって大きな障害だ。
 さらに城が存在したのは中世。江戸時代より前。平山城とはいえ、後の石材で高々と積み上げる、皆さんが想像するような白亜の城とは様子がまるきり違う。石を積み上げることはなかった。その代用として山裾の周辺を切り崩して崖状にして防禦を固めている。これを切り岸という。館山城周辺には今も随所にその痕跡が多数ある。

by natsuman | 2013-08-29 09:48 | 歴史 | Trackback | Comments(0)  

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