趣味悠々 3/31
とはいえ書いてある文字が何なのか全く分からないところや虫食いで読めないところもあって、解読文は所々伏せ字のごとく四角いマスが続いている。
古文書は筆と墨で書いてある。正に墨跡である。その優れた墨の特質が後世に古い記録を残してくれている。これは誇っていいことだ。墨のない国では古い記録がどの程度残っているのだろうか。墨は優れたインクだ。もちろん和紙という優れものもあった。
筆文字はくさび形文字や活字などとは違い、欧文の筆記体と同じように筆跡が連続しがちだ。それが筆文字の一番の特徴かも知れない。楷書で見るように元はきちっとした文字であっても、使えば使うほどに、また慣れれば慣れるほどに、一画一画が連続しがちで、反面不明瞭になりやすく、結果読みにくくなる。
古文書は崩し字や草書体の世界である。どこが始まりでどこが終わりかよく分からない続け文字が特色である。確かに詠みにくい。だが心配は要らない。
文字は人によって描き方が違っていては他人が読めない。つまり文字の用を為さない。まして御役所からの通達や指示などは日本中どこでも読めなければ意味がない。だからちゃんと使うべき文字の書き方が決まっている。古文書は全国に共通使用できる書き方「御家流」というもので書かれているのである。
古文書講座はその崩し方を習う場と云っても良い。初めは元の字を想像するのが難しいが、崩し方の基本を覚えればいつしか読めるようになる。そのために大事なことが一つある。崩し字は一種の一筆書きである。だからその書き順が極めて大事なのだ。それを知り、つまり崩し方の原則を覚えればいいわけで、古文書勉強は書き順どおりに必ず書き写して覚えろと云われる所以である。
古文書は古い時代の記録だ。その当時の言葉使いや文化が如実に反映されている。また時代の世相や歴史も当然ながら浮き出てくる。そこに結構な文化的な奥の深さがあるわけで、それが面白いのだ。それが趣味かどうかは別として・・・・。
by natsuman | 2013-03-31 16:45 | 教育学習 | Trackback | Comments(3)
というわけで特段「御家流」を習う必要はありません。どこか図書館や博物館などで古文書講座を開いていれば、そこで接することになります。ただ講師によっては文字を書かないで、つまり黒板に板書などしないで、ただ解釈ばかりの方もあるかと聞いています。幸い私は良い講師に恵まれましたが。