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3月10日の大空襲に寄せて 3/10

 今、3月10日と聞くと東北大震災の前日です、なんて返ってくる。だがこの日は日本人が忘れることが出来ない東京大空襲の日でもある。震災以上に忘れられない日だ。当時ボクはまだ学校前。記憶は曖昧である。でもその雰囲気は覚えている。
 アメリカのとわざわざ書かないといけない。「日本はアメリカと戦争したことがあるの」なんて、とんでもない歴史ボケが若者の中にはいるようだから。
 今から67年前の、もう日本の負け戦が分かっている、半年後には敗戦を迎える昭和20年の3月のこの日、アメリカのB29(これはボーイング社製B29型という大型の4発戦略爆撃機のこと。1万メートルの高高度でおよそ290機が東京上空に侵入。迎える日本の戦闘機はそこまで飛べず、蹂躙されるままになった。爆弾の雨は1日にして東京を焦土と化した。
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 被害者10万人。人はみな熱風で焼き殺され東京の町は死屍累々。広島長崎の原爆被害と何等変わりない民間人殺戮の典型だった。戦場というよりは虐殺だった。
 日本の住宅は木と紙でできている。なら強力な爆弾は要らない。火を付ければそれで潰滅さ、といったかどうかは知らないが、そこに目を付けたアメリカ空軍のル・メイ少将が、膨大な数量の黄燐をたっぷり詰め込んだ焼夷弾を、しかも効率よく燃えるようにとアメリカ本土で大規模な実験までして計画し、それを東京で実行した。
3月10日の大空襲に寄せて 3/10_d0013739_9543051.gif かって戦争とは敵の姿が見える範囲で戦うものだった。そこに航空機が現れて殺し合う相手の顔や姿が見えなくなる。爆撃という戦争手段はその典型となった。搭乗員は遙か上空でそれこそコーヒーでも飲みながらスイッチを押せば良かった。その下遙か数千メートル下ではどんな地獄図絵が展開されようとも、搭乗員にその姿は見えず苦しみも伝わらない。ボタン戦争の始まりである。
 この日、ボクは千葉県の東金に疎開していた。母がよく云ってた。あの日から三日三晩、夕焼けのように東京方面の空が真っ赤に燃え上がり凄まじかった。東京下町から学童疎開していた子供達250人ほどが、可愛そうにも一晩でみな親無しになってしまった。そう云っては涙を流した。
 その憎むべきル・メイ少将に戦後の日本政府は航空自衛隊創設に功績があったとして勲章を贈った。正に鬼畜将官にだ。そんなことがあっていいものか。未だにボクは許せない。
 日米間の戦争の発端、その原因は簡単には記せない。一歩下がって仮に日本に非があるとしても、それなりの理由があってのこと。それだけにそれを忘れて「日本を守っているのがアメリカだ」なんて発言は、そう易々とは許容出来ない。
 歴史は皮肉だ。その惨劇を演出する爆撃という行為、しかも都市を相手に無差別爆撃するというのは日本軍が嚆矢であった。その爆撃行に家内の戦死した叔父が97式陸上攻撃機で参加している。重慶であったか漢江であったか。その功績で早くに勲章を貰っている。皮肉なものだ。(画像はwebから借用)

by natsuman | 2013-03-10 09:57 | 歴史 | Trackback | Comments(0)  

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